『インドネシアと武部洋子』前編:ロックとわたし

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こんにちは。『旅の指さし会話帳 インドネシア語』(情報センター出版)著者の武部洋子です。生まれは東京、住まいはジャカルタ、国籍はインドネシア、インドネシア名はヨーコ・タケベ。2013年に帰化をしました。それもこれも、すべてロックのせいです。

「著者近影」を気取って撮った写真。といってももう5年くらい前ですが。『旅の指さし会話帳 インドネシア語』を書いている関係で、ジャカルタ日本人学校で講演させていただいたときです。

 

深夜特急、ロンドン発ジャカルタ行き

そもそも私はいわゆる自称「ロンドン少女」でした。DJイベント「ロンドンナイト」で有名な音楽評論家の大貫憲章氏が、ラジオで「自分は20年後もずっとザ・クラッシュを聴いているだろう」とおっしゃっていた(うろ覚えですが)のを聞いて、「私も!!」と熱く共感したのが高校生の時。もはやあれから20年どころか30年以上たっても、まだザ・クラッシュにのぼせたままです。もちろん夢はロンドンに行くこと。結局いまだに東南アジアさえ出てもいないんですが…。

今改めて見て痺れております。『ロンドン・コーリング』のオフィシャルビデオはなぜかインドネシアでは見られない設定になってた…。

その頃、両親の本棚から読みあさっていたノンフィクションの本から、インドだとか、ネイティブ・アメリカンにも漠然と興味を持ち始めました。その中で一番ガツンときたのが、沢木耕太郎氏の『深夜特急』。今でこそありきたりなきっかけだと言われてしまうかもしれませんが、当時はまだテレビドラマどころか、ヨーロッパ編の最終巻も出ていませんでした。そして、そこに描かれているような「アジアの混沌」に憧れるようになった。

そう、「混沌」てところがミソです。それまでのステレオタイプ、つまりビーチリゾートやら援助対象としての「発展途上国」ではない、何かしらとてつもないエネルギーが充満する怪しい場所。そこからアジアをどんどん知りたいと思い始めたのが、ちょうど高校からの進路を決める時期だったのです。

『深夜特急』に出てきた様々な場所の中でもインパクトが強烈だった香港。私もインドネシアに行く時にトランジットで立ち寄り、本にも登場した重慶大厦やスターフェリーを体感して来ました。

その時点でインドネシアという国はまったく視野に入っていませんでした。『深夜特急』でも、沢木さんはインドネシアに行っていませんからね。東南アジア研究が盛んな上智大学に進学したわけですが、その時に第二外国語として選択肢にあったアジア言語がタガログ語、タイ語、中国語、インドネシア語。ただ、中国語はあまりにメジャーでつまらないと思ったし、他の言語は私のいた新聞学科の時間割に合わなかったので、消去法的に選んだのがインドネシア語でした。今から30年前のことです。

ジャカルタの道端、タイヤ修理屋さんのいい感じの看板。

 

インドネシア世界に引きずり込まれた顛末

そこで出会った先生方が、なにしろすごかった。まずは村井吉敬先生。代表的著作としては、『エビと日本人』や『インドネシア・スンダ世界に暮らす』が挙げられます。

もう一人が押川典昭先生。ノーベル文学賞最有力候補にもなっていたインドネシアの偉大な作家、プラムディヤ・アナンタ・トゥールの著作(『人間の大地』)の翻訳を多く手掛けられています。

その他にもインドネシア語の教科書を出されているバタオネ先生、キュートなアイ先生など、個性的な先生たちに教わってきました。インドネシア語にはまるべくしてはまった、最高にぜいたくな環境だったといえましょう。

私の運命を決めたのは村井先生の「初級インドネシア語」第1回目の授業でした(あるいは2回目か3回目だったかもしれません)。これこそが私のインドネシア・ロックとの出会いです。あえてロックと言いましたが、その定義については後ほど。

教材として聞かせてもらったのが、Euis Darliahという女性歌手の”Apanya Dong”という曲 です。「あぱにゃどん」というなんとなく滑稽な響きからして、すでに興味をそそります。歌詞はざっくり「彼にすっごく惹かれるんだけど、一体どこがいいんだろ?ルックスはどってことないのに、どこが、どこが、どこがいいんだろ?」という軽いもので、カセットテープから流れるペラいサウンド、サビの妙なインパクトに加え、念仏を唱えるような村井先生のひどい音痴が相まって、いまだにトラウマ…いや、忘れられない衝撃体験として私の中に刻まれました。

初めてインドネシアを訪れたのは大学2年生の春休み、1990年のことです。当時はジャカルタ行きの安いチケットもなく、私はまずバンコクへ飛び、カオサン通りに泊まってそこで航空券を探すという、わかりやすいくらいバックパッカーかぶれなプロセスを踏みました。ほとんど儀式みたいなものです。その時点ではまだタイにハマるというオプションもあったはずなんですが、運悪くおなかを壊し、5日くらいの滞在の間、ひとり安宿の天井でけだるく回るシーリングファンを眺めて過ごしました。ちょうどレオナルド・ディカプリオの映画『ザ・ビーチ』のワンシーンみたいに。

ところが、その後移動したインドネシアでは、現地で合流した友人にいきなり水のきれいな米どころに連れて行ってもらい、体の不調がすぐに吹き飛んだのです。「インドネシア、最高!」と思った瞬間でした。そこから友人と別れてひとりで鉄道やバスを乗り継いでジョグジャカルタ、スラバヤ、ロンボク島(当時はひねくれていたので、みんなが行くバリ島なんて行くもんか、といつもあえて素通りしていました)を回ったのですが、実は、その時の経験をイラスト日記にしたものがあります。

こうして見直すと、危なっかしくてハラハラしますね。大丈夫か、洋子!? ともあれ、こうして自分の足でインドネシアを歩き回る楽しみに味をしめた私が、大学の休みごとにバックパックをしょって出かけて行くのを見て「タケベさんはヒッピーみたいですね」とコメントされたのが、恩師村井先生。今は天国にいらっしゃる先生、私はこれを勝手に誉め言葉と受け止めていますよ!

1992年「ヒッピー」時代の私。ジョグジャカルタにて。この頃はちょうど、インドネシア政府の奨学金を得てバンドンのパジャジャラン大学に留学中でもありました。

それ以来、インドネシアを愛する素晴らしい人たちとの出会いもあり、私はめくるめくインドネシア世界にずぶずぶとはまっていきました(文章の最後に、私に影響を与えて下さった尊敬する皆さんの著作リストをつけておきますね)。

 

ロックが決めた進路

さて、ロックの定義について。私にとってそれは音楽の1ジャンルではなく、自分の好きなものはたいていなんでもロックです。じゃあどういったものがロックかというと、うわあ、とか、くぅ~とか、ひゃあとか、もう言葉も出ないけど心の底からゾクゾクしたらそれはすべてロック

武部洋子、文章でお金いただいて約30年。バカなのかと不安になる貧困な語彙力ですが、もうそうとしか言えないし、そこにこそ愛があるんですよ。ロックは生き様そのもの。『深夜特急』を読んで、アジアに惹かれたとき。村井先生のインドネシア語の授業を受けたとき。自分の足でインドネシアを旅してまわったとき。全部まさにそれ。ぞわぞわぞわーっときたわけです。インドネシア、ロックじゃん!

コツコツとアルバイトをしてお金を貯めては大学の休みごとにインドネシアに通い、1年間語学留学もし、そろそろインドネシア語を使った仕事も少しずつできるくらいの力がついてきました。下の写真は、1992年、ダンドゥット(インドネシア大衆音楽の1ジャンル)の王様と呼ばれるロマ・イラマが来日した時インタビューの通訳をしている私です。

ダンドゥット自体はインドやアラブ、マレーなどいろいろな音楽に影響された上でできあがっているのですが、彼のギター奏法はディープ・パープルのリッチー・ブラックモアがルーツらしい。彼のライブも、私のインドネシア歴初期に触れることができた貴重なロック体験のひとつであるといえましょう。

はじめての翻訳仕事もたまたま音楽関係で、かつてはサンディー&サンセッツ、最近ではハワイ音楽で活躍されているサンディーさんの『AIRMATA』(1993)というアルバムの歌詞対訳をしました。ダンドゥットをはじめとしたマレーシアとインドネシアの古い名曲を歌ったアルバムなんですが、マレー語はインドネシア語と似たようでかなり異なるもの。非常に難しかった記憶があります。こちらのサンディさんインタビューにちょっとそのアルバムの話が出ています。

サンディーさんスペシャルインタビュー 第1回-salitoté(さりとて)歩きながら考える、大人の道草WEBマガジン

 

さて、そんなこんなで少しずつインドネシア語に対する自信もつけ、大学を卒業する頃にはもう「私は日本で就職しないでインドネシアに住む!」と決めていました。

 

(後編につづく)

 

インドネシアにはまっていく中で出会った皆さんによる書籍リスト

「クジラと少年の海」江上幹幸、小島曠太郎(理論社)
「ジャワの音風景」風間純子(めこん)
「森山式インドネシア語単語頻出度順3535」森山幹弘(めこん)
「東南アジアのポピュラーカルチャー」福岡まどか、福岡正太編著(スタイルノート)

*以下は私も寄稿させていただいている本

「現代インドネシアを知るための60章」村井吉敬、佐伯奈津子、間瀬朋子編著(明石書店)
「インドネシアを知るための50章」村井吉敬、佐伯奈津子編著(明石書店)
「インドネシアのポピュラーカルチャー」松野明久編(めこん)

 

 

編集:ネルソン水嶋

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この記事を書いた人

武部 洋子

武部 洋子

東京生まれ、1994年からジャカルタ在住。現在はインドネシア国籍を有する。上智大学文学部新聞学科卒。『旅の指さし会話帳インドネシア語』(情報センター出版局)、『単語でカンタン!旅行インドネシア語』(Jリサーチ出版)など著作の他、『現代インドネシアを知るための60章』(明石出版)執筆、辰巳ヨシヒロ作『劇画漂流』インドネシア語訳など。インドネシアへの入り口がロックだったので、90年代インドネシアロックにはうるさい。Twitterはこちら

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