音楽家、鷹匠、映像監督、そして茶の道。裏千家メキシコ協会会長べハールさんの人生観

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「茶室」を訪ねてアフスコの山奥へ

メキシコシティ北部に位置する我が家から、道のりにして45kmほど南へ行ったところにあるアフスコの山の中。

メキシコシティ名物の交通渋滞に嵌りながらオフィス街や住宅地を抜け、途中、のどかな羊の放牧地を横目に見つつ、車は山中へひた走ります。3時間弱かけてようやくたどり着いたそこに、かねてから訪ねてみたいと切望していた方の邸宅があります。

茅の輪のような丸い形の扉をくぐり抜ければ、そこは「異世界」への第一歩。その先にある同じメキシコシティにいるとは思えない静かな、そして凛とした空気の中、茶室「寸暇楽(すんからく)」が私を出迎えてくれました。

人間、本当に感動するとため息しか出ないもの。このお茶室に迎えられた時、そう感じました。

 

材料を集めるのに8年。こだわり抜いて造った「メキシコ人の茶室」

お茶室は単なる建物ではありません。この片隅や天井、いたるところに人の歴史や精神が息づいているんです。ぜひその息遣いを感じてみてください

そう語るのはお茶室の主(あるじ)、ロベルト・ベハール・カルデロンさん。現在、裏千家淡交会メキシコ協会会長を務める方です。

べハールさんは、平成30年春の叙勲で旭日双光章を受章。もちろん、彼のメキシコにおける30年以上にわたる茶道普及の功績が認められてのことです。また同年、その半生を描いた映画”Sunka Raku”がメキシコにて上映されました。


こちらがその”Sunka Raku”トレイラー。

 

せっかくなのでお茶を一服いかがでしょう、というお言葉に甘え、「寸暇楽」でお茶をいただくことに。毎週日曜日にメキシコ人のお弟子さん向けにお稽古をなさっているというベハールさんですが、76歳という年齢を感じさせない、その背筋の伸び具合。そして無駄のない所作には思わず惚れぼれと見入ってしまいました。

ここまで立派なお茶室を構えるほどですので、その求道心は一目瞭然。茶道の一体なにに心を惹かれたのかと問うと「実は茶道の師に弟子入りする前に、茶室を造ったのです」という意外な答えが返ってきました。

忘筌庵のたたずまい。

最初に造ったという茶室が、敷地内の奥にひっそりとたたずんでいるこちらの庵。千利休が建てたといわれる「待庵(たいあん)」を写した「忘筌庵(ぼうせんあん)」です。

べハールさん「かつてサンフランシスコに旅行中、偶然、茶道に関する本を見つけました。もともと漠然と日本文化というものに興味を持ってはいましたが、茶室というものに惹かれたのはそれが初めてでした。付録としてついてきた紙で作る茶室の図面や写真を見ながら『実際にこの茶室を建ててみよう』、そんな気持ちが生まれてきたんです」

京都に現存する、国宝・待庵。

そしてベハールさんは本にある写真を見ながら、「確か、畳の横幅は95センチだったはず。そうすると、この柱は実際はこれくらいの高さだな」と計算をし、待庵のミニチュア模型を作り始めたそうです。

後にベハールさんの茶道の師となる日暮宗豊氏は「彼は(もともと)映像監督だから、映画のセットを作る、そんなイメージで造っていたんじゃないかな」と述懐しています。なるほど確かに、そうでなければ、なかなか写真や図面という2次元のもの、さらには他国の建築物を実際に建ててみよう、そんな気持ちは起こらなかったのではないでしょうか。

さらにベハールさんは絶対の信頼を寄せていたメキシコ人大工と共に日本式の建築方法を研究しながら、実に8年かけて「材料」を集めたといいます。「材料を集めるだけで8年もかけるだなんて頭がおかしいんじゃないか、そう思うでしょう?」と、べハールさんはニヤリと笑います。

「ここから見える忘筌庵の姿がユニークで好きなんです。ぜひ写真に」と、べハールさん。

べハールさん「茶室を造るからには、白くてピカピカした木材は使いたくなかったんです。なので、すでに廃墟になっていたインディヘナ(先住民)の家を訪ねては、煙でいい具合に燻された台所部分の木材を少しずつ集めていったんですよ

そんなこだわりの粋を集めて出来上がった「忘筌庵」、今度は「魂」を入れていきたい。そう思ったベハールさんは1987年、裏千家淡交会メキシコ出張所の駐在講師として指導を行っていた日暮宗豊氏のお稽古場の門をたたくことになります。

こちらは忘筌庵の水屋。なつめや茶杓、茶碗などはすべて日本で懇意にしている古物商から買い集めたコレクションだそう。

 

音楽での挫折、そして思いもよらぬ映像の世界での成功。

べハールさん「猫は9つの命を持つ、などと言われますが、私もそれに負けず劣らずたくさんの人生を生きていると思います」と話すベハールさん。確かに、その人生は波乱に満ちたものと言えるでしょう」

茶道の教えを乞うようになった時代、ベハールさんはすでに映画・コマーシャル監督として成功をおさめていました。テレビ向けの、さらにはごくごく短いコマーシャル撮影にメキシコ映画の黄金期を代表する女優マリア・フェリックスを起用するなどの画期的な手法で注目を浴び、気鋭の映像監督としての地位を得、自身で設立した会社も軌道に乗っていました。しかし、そこまでの道のりは決して平坦なものではなかったのです。

メキシコ映画黄金時代のマリア・フェリックス(出典:Wikipedia

べハールさん「確かに、私はコマーシャル製作のおかげで経済的に安定することができました。このアフスコの茶室や自宅の、その天井は洗濯洗剤<アリエール>、あの壁は歯磨き<コルガテ>でできているようなものですよ。でも、一度も『プロ』として映像を学んだ経験はありません。まして、学位をとったこともありませんよ。私のキャリアはあくまでも音楽家を目指していたものです」

 

パリへ渡ってバロック音楽を志した青年期

1961年、ベハール青年は音楽を志し、メキシコ国立芸術院(INBA)に入学します。彼が選んだのはバロック音楽を代表する「チェンバロ」。資金集めの末ようやく手に入れたチェンバロと共にパリに渡ったベハール青年ですが、生来の「完璧主義」が音楽修行には暗い影を落とすことに。

カーテンを閉め切った部屋で、朝となく夜となくチェンバロを弾き続ける生活の末、精神の均衡を崩し、メキシコ戻りを余儀なくされることとなりました。

ベハールさんと海を渡ったチェンバロ

 

その後の運命を決めた、映像の世界へ

メキシコに戻ったベハールさんですが、すぐに音楽の道を歩みなおそう、ということにはならなかったそう。叔母さんからもらった小さなカメラを手に、地元の教会で行われる洗礼式や結婚式を撮影してはお小遣いを稼ぎ、近所のシネマで映像技師にフィルムの扱い方を教えてもらう毎日を過ごしていました。

とはいえ、家族のためにもまとまったお金を稼ぐことは必要。そう考えているところに友人から「コマーシャル撮影に協力をしないか」と声がかかり、脚本を書いたり作曲をすることに。割のいい仕事だったこともあり「5年我慢してお金を貯めよう。そのあと、また音楽に戻ればいい」と広告映像の世界に身を投じ、気が付いたら50年経ってしまった、とベハールさんは笑います。

ちなみにご自宅のリビングに入ると「鷹匠」の写真が目に入ってきますが、ベハールさんは一時こちらに心を惹かれていたことも。彼のその本格的な活動は、「スペイン植民地時代以来のメキシコにおいて、民間人として初めて鷹匠を行った人物だろう」と語る人もいるほどです。どの分野においても「趣味」にとどまらないところが、ベハールさんの性格なのでしょう。

 

メキシコを代表する画家、フリーダ・カーロから受けた影響

一連の話を聞くと「いかにも芸術家肌」というイメージですが、どのような幼少時代を送ったのかとを尋ねると、芸術とは縁遠い家庭環境に育ったといいます。

べハールさん「私は中流階級の出ですから、アートに価値を見出すような家庭ではありませんでしたね。週末には朝から人が集まってドミノをしたりお酒を飲んでいる、そんな家でした。そんな環境にいた私に、芸術面で大きな影響を与えた人がいるとすれば、それは大叔母のフリーダ・カーロでしょう

フリーダ・カーロ

彼女の名前は、ひょっとするとメキシコにそう興味のない方も耳にしたことがあるかもしれません。日本でも大ヒットしたディズニー/ピクサー映画『リメンバー・ミー』にもキャラクターとして登場していましたが、現代メキシコ美術を代表するアイコンと言える画家です

「激動の人生」や「情熱」という言葉をもって表現されることの多いフリーダは、肉体・精神両面においての「痛み」をエネルギーに変えて創作を続けた画家。肉体的には幼いころに罹った病気がもとで足に障害を抱え、さらには18歳の時に遭遇したバス事故の影響で生涯にわたって後遺症に苦しむことになります。

事故後の寝たきり生活を紛らわすために絵を描き始めたといわれていますが、彼女の描く絵に感銘を受けた、その後夫となる画家ディエゴ・リベラとの関係が今度は精神面で大きく影響を与えていきます。

ディエゴ・リベラによる壁画「アラメダ公園の日曜の午後の夢」の一部。骸骨カトリーナと腕を組む幼い日のディエゴの後ろにいるのがフリーダ

フリーダより21歳年上、メキシコ壁画運動の旗手としてすでに名声を得ていた壁画家のディエゴですが、私生活では女性関係が途切れることがなく、その不倫相手にはフリーダの妹も含まれていたといいます。また、事故の後遺症からディエゴの子どもを身ごもるも3度の流産を経験。夫の不倫、そして流産はフリーダの作品にも大きく反映されることになりました。

フリーダ最後の作品。スイカに刻まれているViva la Vidaとは「人生万歳」という意味。晩年、鎮痛剤なしでは生きられないほどの痛みを抱え、右足の切断手術まで受けたフリーダが振り返る「人生」とは。ちなみに、このスイカの赤・白・緑がメキシコの国旗を表している、とも言われています。

現在、フリーダ・カーロ博物館として一般公開されているフリーダの生家、通称「青い家」。ベハールさんのおばあさんはしばしば、「ちょっとパンを買いに行くからロベルトを預かっていて」と言い残し、この青い家にロベルト少年を預けていたそうです。

べハールさん「パンを買いに行く、というのは体のいい理由。実際は友達とカフェを楽しんでいたので、毎日2時間くらいフリーダの家で過ごしました。フリーダの横たわるベッドの下に踏み台があったのですが、それを机代わりにして宿題をするといった感じです」

フリーダのベッドには天蓋部分に鏡が取り付けてあり、ここからベハールさんの宿題をチェックしていたそう。

ある日ベハールさんが、「複写式のカーボン紙でなぞってメキシコ合衆国の地図を描く」という宿題をしているのを見た彼女は、烈火のごとく怒って宿題のノートを破り捨てたといいます。そのあと、下男にイーゼルを持ってこさせ、「写すのではなく、自分の目で見て、自分の筆で描きなさい」とベハールさんに命じたフリーダ

ベハールさんは、「とにかく怖くて怖くて……しゃくりあげながら描いたメキシコの地図でしたが、無事に合格点をもらいましたよ」と振り返ります。

べハールさん「彼女の家というのは、本当に刺激的でした。訪ねてくる人間は、たくさんのアーティストや思想家たち。家の中は、絵画やプレヒスパニック(スペイン征服以前)の彫刻で彩られ、ショロ(メキシカン・ヘアレス・ドッグ。アステカ時代以前からメキシコにいたと考えられている犬種)やサルが走っていてね。自分の家庭とは全く違う、こんな世界が存在するのかという驚きにあふれていました」

 

少年時代のトラウマ、そして世の中への失望

しかし残念ながら、幼いころのベハールさんに大きな影響を与えたのは、フリーダのようなポジティブな存在だけではありませんでした。小学生の頃、両親の離婚をきっかけに送られたカトリック寄宿舎で、肉体的ないじめ、そして司祭による性的虐待を受けることになります。

現代よりも宗教-ここではカトリックの教え-がもっとずっと身近に、そして強く影響を与えていた1950年代のメキシコで、ベハールさんは幼くして宗教に失望させられました。そして「自分を取り巻く、世の中すべてが敵」「人間とは例外なく病んだ存在なのだ」という思いを強く持ったといいます。

 

茶の湯を知って得た心の平安

幼いころからの壮絶かつ波乱万丈の人生。しかし、現在のベハールさんの穏やかな表情、そして立ち居振る舞いからはとてもそのような過去はうかがい知れません。

べハールさん「茶道には『茶禅一味』という言葉があります。茶道も禅の思想もつまるところは同じで、この2つは切り離せない、ということです。私は茶の湯を知り、その哲学を学んだことで心の平安を得ました。自分の中に生まれた苦しみや辛さは、時に、攻撃となって周りの人々を傷つけることになります。ですが茶の湯を通して知った心の平安のおかげで、私は憤怒に捉われることなく、人を傷つけずに済みました。それには本当に感謝しています」

自宅内にある石庭には「忠恕」の文字が。忠恕とは自分の良心に忠実であり、他人に対する思いやりが深いことを指す孔子の言葉。

忘筌庵の中でベハールさんは「茶室の中に足を踏み入れるということは、茶室の外の暮らしにあるしがらみや悩みを外においてくる、ということに他なりません」と教えてくれました。「それはつまり茶室でお茶をいただくことは魂の浄化作業だ、ということなのでしょうか?」、そう問う私に、わが意を得たとばかりに微笑んでくれたベハールさん。

茶道というと、現代においてよほどのことがない限りは足を踏み入れる機会のない、自分とは関係のない世界にある「日本の伝統作法の一つ」と捉えらえることも多いのではないでしょうか。ですが、その根底にあるものが、古から引き継がれてきた所作や作法を学ぶことではなく、疲れて凝(こご)った魂のカタルシスなのだ、と思うと、むしろ今のこの世にこそ必要なのではないか、そう感じました。

ベハールさんの点てるお茶、そして語られる言葉にぽっと心を温かくしつつ、彼の作り上げた桃源郷を辞して、家路へとついたのでした。

 

 

編集:ネルソン水嶋

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この記事を書いた人

Mariposa Torres

Mariposa Torres

2010年のメキシコシティ移住と同時にライター活動を開始。メキシコ現地日本語フリーペーパーの編集長を経て、現在は会社員とライターの二足のわらじ生活を送っています。サボテンやテキーラ、はたまた麻薬抗争……といったメキシコのステレオタイプなイメージをぶち壊すために草の根運動中。メキシコ生活を楽しむための情報ブログもやってます。めひこぐらしの手帖@mexicogurashi

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