戦後最大の物々交換?タイ国鉄は日本製蒸気機関車を守れるか

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タイ国鉄の起死回生は機関車頼み?

タイにも国鉄がある。ただ、日本のJR路線から連想すると大きく違う。東南アジア全域で言えることでもあるが、タイも鉄道網があまり発達していないのだ

1897年の開通以来、大して線路は延伸されておらず、タイ国鉄冊子「Rodfai Samphan Vol4 2018」によれば、2018年時点で総延長距離は4,044キロになっている。ネットで調べると、JRの総延長距離は約2.7万キロだそうだ。タイ国鉄の規模がわかるだろう。

ドンムアン空港前の線路は複線化されている(2016年3月26日撮影)

なにより驚くべきは、このうち複線化されているのがわずか6%程度。つまり約250キロほどでしかないことだ。行き違うことができないので、速く走ることすら困難である。

さらに、単線が大半であるが故に運行システムも刷新されていない。たとえばタブレット閉塞方式だ。これは輪っかに入った札を駅と駅の間で渡し合って正面衝突を避けるという運行方法となる。日本では似たような方式を採用しているのがわずか2ヶ所しかないほど、大昔の運行方法である。

輪っかの先に鍵つきの箱があり、札が隣の駅に送られていく。

そんなタイ国鉄は万年赤字と言われている。バンコクでは路線バスよりも運賃が安いが、本数が少なく遅いので誰も使わない。もちろん、タイ国鉄も倒産を黙って待っているわけではなく、路線の複線化や高速鉄道の導入などを進めている最中だ。

朝8時ごろにアユタヤに向け出発し、夕方、バンコク駅に帰着する。(2019年7月28日撮影)

また、タイの特別な日には蒸気機関車(以下SL)を走らせるイベントを開催する。国王がラマ10世になってから、その機会が年4回から6回に増えた。国鉄の日(3/26)、王妃誕生日(6/3)、国王誕生日(7/28)、母の日(8/12)、チュラロンコン大王記念日(10/23)、父の日(12/5)だ。特別列車としてSLが客車を引き、古都のアユタヤやナコンパトムへと走る。

気軽に運転台に入らせてくれるのもイベントの魅力だ。

チケット代も、たとえば2019年7月28日のアユタヤ行き記念SLは1500バーツ(約5200円)。食事つきとはいえ、通常の運行ではアユタヤまで片道で66バーツ(約230円)だから、実に20倍以上だ。それでもイベントは人気を博しているようで、年々チケットの売れ行きもよくなっているという。

 

蒸気機関車はすべて日本製だった

そんな記念日に走行するSLはすべて日本製だ。

しかし、そもそもタイの鉄道は英国を参考にしたとされる。また、タイ国鉄の前身である鉄道局の初代局長はドイツ人だった。つまり、タイの鉄道はヨーロッパのものだったと言える。実際にドイツ製の機関車などが今でも地方の国鉄駅に展示されている。にも関わらず、現在タイで走行可能なのは日本製の機関車なのだ。

その理由を探ってみるとタイの歴史も見えてきて非常におもしろい。

日本製のパシフィック型。イベントでは同型車両が2連結で客車を引く。

まず、タイは第2次世界大戦の際、終戦日の8月15日まで日本と同盟国であったことを知っておかなければならない。タイ人の外交力は日本人よりもずっと長けている。戦時中も日本と手を組みながらも、終戦時にうまく交渉し、タイは連合国側に入った。

今でもタイの東北地方ではタイ米が大量に生産されている。

英国などはタイの連合国側入りを猛反対したそうだが、日本を占領するアメリカが後押ししたとされる。というのは、「戦後日本が食糧難になる」と見越していたためだ。米の生産地でもあるタイが、将来の食糧難を乗り切る作戦に必要だった。

運転手もタイ国鉄の正装で、なんだか誇らしげな顔をしている。

柿崎一郎著『王国の鉄路 タイ鉄道の歴史』を読むと、戦後アメリカの許可により戦時中に日本軍が持ち込んだ111両のSLの一部がタイのものになった。それから1948年と1950年に50両ずつのSLが発注され、タイに納入。

しかし、日本と同じくタイにもこんなにたくさんのSLを買う財力はない。その答えが、タイ米とSLの物々交換だ。SLの代金をタイ政府はタイ米で支払い、そうして造られたSLがタイ各地の農村からバンコクまで米を運び、日本へと輸出されたのだ。

出発前は記念撮影で線路にまで入るタイ人たち。

現在、タイで走るSLの中心的存在はパシフィック型と呼ばれるアメリカ式車輪配置のSLだ。車輪配置とは蒸気の力を伝える動力車輪や補助輪の配置や数のこと。日本で聞く「デゴイチ(あるいはデコイチ)」と呼ばれるSLはD51型のことで、Dは動輪が4つあることを表している。A、B、C、Dと数えていて、C型の機関車は動輪が3つということになる。パシフィック型はその数え方がアメリカ式でやや特殊だ。

イベントで走っているパシフィック型の車両のプレートを見ると、おそらく1948年に発注され、1949年に完成したSLである。日本の古い車両がこうしてタイの特別な日に走るというのはなんとも不思議で、うれしい話だ。

 

消えゆくのか? タイで走る蒸気機関車

日本製SLの走行イベントは人気が高まりつつある一方、懸念事項も少なくない。

まず、SLは日本においても希少な存在だ。戦前戦後にタイに入ってきた日本製SLも、今や走行可能な状態のものは5両程度しかない。生産国の日本でさえ部品が入手困難なので、タイではもっと部品が手に入りにくくなっている。

こんな機械を昔の日本で造っていたと考えると、SLの見方が変わってくる。

しかも、そもそもSLの部品を造る技術すら失われているとも言われている。戦前戦後にあった部品会社はなくなっているか、残っていたとしてももう製造していない。技術者もすでに高齢か、すでに亡くなっている方も少なくないだろう。もうほしくても手に入らない状態になりつつあるのだ。

イベント前に車両を点検する国鉄職員。こういった主要部品はタイで生産できない。

パシフィック型SLは当初は石炭で動いていたが、現在は重油を燃料にしている。そういった技術はタイにはあるにはあるが、さすがに半世紀以上前のSLの主要部品を造るまでには至っていない。

SL車両を間近に見ながらその主要部品が実は終戦直後に造られたと知ると、タイ人がSLを大切に使ってくれていることと、昔の日本人の技術力に感動を覚えるのである

 

蒸気機関車を守る一般人たち

そんなSLを今も守り続けているのはもちろんタイ国鉄の技術者たちであるが、そのほか、大学生を中心にしたボランティアたちの存在も忘れてはいけない。若い好奇心がSL車両の維持をバックアップしているのだ。8月12日の母の日のイベント前日に機関区(車両の修理工場のような場所)に行ってみた。

パシフィック型の運転台を掃除するボランティア。

タイはだいぶ先進的になってきたけれども、いろいろなことがまだ置き去りにされている。たとえば「安全管理」だ。日本なら許可なく、いや、許可があっても一般人が機関区を自由に歩き回ることはできない。しかし、タイはそれができる。その代わり、車両に轢かれたり、どこかに落ちて大けがをしても誰も補償はしてくれないが。

トンブリ機関区。通常の車両に混じってSLが置かれている。

SLが置いてある機関区はトンブリ機関区だ。タイ最高峰の寺院であるエメラルド寺院(ワット・プラケオ)、涅槃像のワット・ポーの前を流れるチャオプラヤ河を渡った場所にある。映画「戦場にかける橋」で有名なカンチャナブリ県に向かう列車が発着する、トンブリ駅に隣接する。

木炭を燃料とするC56型の正面。

ここに先述のパシフィック型が2両、最近はあまり走っていないミカド型というSL、それから木炭で走るC56型が2両ある。C56は最近は年に1回、カンチャナブリのイベントで現地を走行する。2019年は11月23日から12月2日に開催する祭りに参加する。ただ、木炭なのでパワーが出ないらしく、ディーゼル機関車が補助で走るのだとか。

タイの鉄道は冒頭でも紹介したように移動手段としては不人気であり、そもそも路線網がほとんどない。タイ人は鉄道に乗ったことがない人の方が多いほどだ。だから、必然的に日本のような鉄道ファンは存在しない。イベントに駆けつけるのはカメラ愛好家が被写体を求めてのことだ。

えんじ色のパンツの若者が今のボランティアの中心的存在の大学生。

しかし、このボランティアに参加する学生たちはSLに魅せられた人ばかりだ。中には実際にタイ国鉄に就職した人もいるほど。そういえば、日本でも国鉄時代は親子代々、国鉄で機関士になるというのは珍しいことではなかったという。タイも同じで、親子で機関士として働く世帯が今も少なくない。特にSLにはそうやって人を引き込む魅力があるようだ。

ここでも運転台に入らせてもらい、ぼくの息子は運転手気分に浸る。

学生たちはこういったイベントの前に機関区に来て、掃除を行う。さすがに修理はプロが行い、彼らの手助けとして、運転席周りや車輪近辺を磨く。特に足回りは油を使って磨くので、体中がベトベトになってしまう。本当に好きだからできることなのだなと感心する。

 

タイ国鉄は古き良き日本を垣間見るチャンスにあふれる

タイ国鉄ではSLのほかに、ブルートレインやDD51ディーゼル機関車など、日本の古い車両が払い下げられて活躍している。日本で動いていたときと同じ色ではないが、中に入ると日本語表示があったり、ノスタルジックで不思議な気持ちになる。

チェンマイ駅を出発した車両。客車は紫色に塗られた元ブルートレイン。(2016年撮影)

タイ国鉄の中央駅、つまり日本で言う東京駅はバンコク駅だ。通称をホアランポーン駅というのだが、この駅舎は100年以上前に造られている。日本人鉄道ファンに言わせると「昭和30年代の上野駅」なのだとか。ちょうど東北や北部から列車がやってくるその雰囲気がまるで昔の上野駅なのだという。

しかし、この駅舎も数年後には取り壊される可能性がある。タイ国鉄は週末市場で有名な「チャトチャック・ウィークエンドマーケット」の近くにあるバンスー駅を中央駅にしようと、今大きな駅舎を造っている。余談だが、このチャトチャック市場はタイ国鉄が所有する公園にあるので、主催者はタイ国鉄である

「窓から乗り出さないで」の昔のポスターがホアランポーン駅に飾られていた。

この新駅舎ができるとホアランポーン駅は不要になり、博物館になる説と取り壊し説のふたつがある。いずれにしても駅としての機能がなくなるので、魅力は大きく低減する。

東北の田舎駅で使われているタブレット閉塞式の装置は戦前のもの?

SLの存続問題、そもそもタイ国鉄が赤字という状況で、ブルートレインなど古い日本の車両の維持も続くのかどうか。高速鉄道が実現すればシステムはデジタル化されるだろう。そうなれば、冒頭で紹介したタブレット閉塞式もなくなる。

古き良き日本、古き良きタイ国鉄を垣間見られるのは実はあと数年かもしれない。そう思うとタイ人にももっとタイ国鉄に注目してほしいところだが、残念ながらタイ人は新しいものが好きな国民性で、歴史に興味がない。タイ国鉄が衰退する公算の方が現状は大きい。

 

 

編集:ネルソン水嶋

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この記事を書いた人

高田 胤臣

高田 胤臣

1977年、東京生まれ。1998年に初訪タイ、2002年からタイ在住。タイの救急救命慈善団体「華僑報徳善堂」唯一の日本人ボランティア隊員。現地採用社員としてバンコクで日系企業数社にて就業し、2011年からライターになる。単行本数冊、AmazonKindleにて電子書籍を多数発行。執筆のジャンルは子育てネタからビジネス関連まで多岐に渡る。最近は「バンコク心霊ライター」の肩書きがほしく、心霊スポットを求めタイを彷徨う。

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