戦跡にインフラ…人名? 花札!? 島国パラオで見つけた意外な「日本」

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クリックorタップでパラオ説明

 

小さな「日本」を発見できる島国パラオ

その時、私はパラオのコロール市内でタクシーに乗っていました。すると、パラオ人のタクシードライバーが「Japanese! Japanese!」と外を指さすのです

その先には高校の校門があり、ドライバーは、「この門は日本人が戦前に建てたものだ」と教えてくれました。それから少し進むとまた、「Japanese! Japanese!」の声。

現在は裁判所として利用されている建物も、戦前に日本人が建てたもので、1922年から1945年まで「南洋庁(パラオをふくむ諸島を管轄する施政機関)として利用されていた」とのことでした。

目的地に到着してタクシー代を払おうとすると、「ダイジョーブ」と言って、少し安くしてくれました。この「ダイジョーブ」、相手が日本人だからと知っている日本語を言った訳ではなく、パラオ語です。

日本から南へ4000キロ離れた、人口2万人の小さな島国パラオ。

遥か遠くの南の島に、ちょっとした「日本」を見ることができます。

 

日本統治が残したインフラと戦争の痕跡

1994年に独立を果たしたパラオ。有史以来、外国に統治され続けてきた歴史を持ちます。

日本は、第一次世界大戦時に、当時統治していたドイツからパラオを占領し、1920年からパラオの委任統治を始めました。コロール島に南洋庁を置き、学校や道路、空港、水道、電気などのインフラ整備や日本語教育を実施。統治時代を経験したパラオ人(年齢的に90歳以上)は、みなさん日本語を話すことができるそうです。

話を聞くと、これまで統治してきた国は日本のように教育やインフラの整備を行わなかったようで、日本が統治したことよって、パラオはかつてないほど発展を遂げたとのこと。

パラオ公園と書いてある石碑。今はガソリンスタンドになってるが、ここは昔、公園があったらしい。

また、戦中、海軍武官府が置かれるなど、海軍基地や空軍基地として日本の本土防衛最前線の役割を担うようになったことから、パラオは太平洋戦争では激戦区となりました。

当時「東洋一」と謳われた飛行場があったペリリュー島では、1万の日本兵と3万を超えるアメリカ兵が激突。その兵力差から「3日で終わる」と予想されていた戦いは、持久戦となり2ヶ月半にもおよび、1万人の日本兵はほぼ全滅。一方のアメリカ兵の間でも千人以上の死者を出したと言われています。

ペリリュー神社には、戦死者の慰霊塔が建立されている。

ペリリュー島に行くと洞穴や戦車がそのまま残されており、当時の様子を感じることができます。

このように古びた戦車は島の至る所で見つけることができる

洞窟。ここに日本兵が隠れて戦っていたという

その戦争の爆弾の撤去や遺骨収集は、戦争から70年以上経った今でも終わっておらず継続して行われています。

太平洋戦死者の慰霊碑。碑文には「さきの大戦において西太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび平和への思いをこめてこの碑を建立する」と書かれている

戦死者の慰霊碑にはシャコガイが埋め込まれています。これは雨水が溜まるようになっており、「洞窟の兵士が苦しんだ水を確保する」という意味があるそうです。また、ペリリュー島は、2015年に天皇皇后両陛下が公式に訪問された場所でもあります。

終戦により、日本の委任統治は終わり、アメリカの統治時代が始まります。

 

パラオ人にとって良くも悪くも「強烈」だった日本人

このように日本が統治していたこともあり、パラオ人にとっての日本人の印象は気になるところです。親世代が日本人の統治時代を知っているロマナさん(72歳)に話を聞くと、父親は日本人を非常に尊敬していたようで、「日本人は世界で一番信用できる。そして、約束や自分たちが受けた恩は決して忘れない」と話を聞いていたそうです

フスティノさん(61歳)の両親もまた日本人の教育を受け、日本語はペラペラだったそうです。しかし、「戦争で危ない目に遭った」と聞かされており、その印象はそんなに良くなかったようだとのこと。しかし、フスティノさん自身は日本人の友達もいて、日本には好印象をもっているとのことでした。

フスティノさんはしばしば、お酒を飲みながら日本の歌を歌うそうです。「美空ひばりやフランク永井は、パラオでも有名だ!」「意味は知らないけど、この歌が一番好きだ」と言いながら、「白樺♪青空♪南風♪〜帰ろうかな♪帰ろうかな♪」と、「北国の春」をこぶしを効かせながら歌う光景にはびっくりしました。フスティノさんは日本語が全く喋れないのですが、そんな方でも日本の演歌を熱唱しています。

タクシードライバーのフスティノさん。日本人の印象を教えてくれました

また、こんなエピソードもあります。

以前、人伝てに聞いた話では、日本統治時代を知るパラオ人に「統治した国から教わったもの」について聞くと、「アメリカ人は我々に『自由』を教えてくれた。日本人は、我々に『責任』を教えてくれた」と答えたそうです。非常に深いなと思いました。

「日本・パラオ友好の橋」(Japan-Palau Friendship Bridge)

日本の無償援助によって建てられた橋である

また、二週間に一度の頻度で行われるナイトマーケットでは、たまに日本の歌が歌われていたりします。

ナイトマーケットの様子

私がパラオへ来る前からもともと親日とは聞いていたのですが、全部が全部良いという訳ではなく、それでも日本人のことを悪くいう人があまりいなかったのが印象的でした。

統治時代を知るパラオ人は、日本に対して良くも悪くも強烈な印象を持っているようで、逆に今の若い世代は、日本に対してそこまで強い意識は抱いていないな、という印象です。

 

「花札」に「人名」……今も残る日本の足跡

衝撃的だった光景があります。

所用でパラオの短期大学に行った時、ちょうど昼休みだったのですが、どこからともなく聞こえる「ツキミデイッパイ」「イノシカチョウ」という言葉。なんと、おばちゃん達が花札をしていたのです。彼女達からしたら、何気ない日常なのでしょうが、ここは日本から遠く離れた異国の地。そういう何気ない日常に、かつて日本が統治していたことを感じさせます。

休み時間に花札を楽しむパラオ人女性

また、パラオ人でも、日本人の名前を持つ人が多いです。例を挙げると、駐日パラオ大使はフランシスコ・マツタロウさん、大統領補佐官もドナルド・ハルオさんという風に。日系の方もいらっしゃるし、そうじゃない方もいます。以前、一緒に食事をしたテルコさんは、日本の名前とパラオの名前を両方持たれていました。

ヤノフードマーケット、クマガイベーカリー。日本にもありそうな名前ですが、どちらもパラオ人が経営しているお店です。

矢野フードマーケットの外観

店内の様子。日本の名前とは関係なく、現地の料理が並ぶ

クマガイベーカリーのロゴ。パラオ人が経営している

また、パラオ語になっている日本語も多く、チチバンド(ブラジャー)、サルマタ(パンツ)、エモンカケ(ハンガー)、キンロウホウシ(ボランティア)、ツカレナオシ(飲み会の時の掛け声)などなど、今の日本ではあまり使われなくなった単語も数多く、パラオ語として日常で使われています。パラオ人との会話は基本的には英語になりますが、たまに「ダイジョーブ」などの日本語が出てきて、ニヤッとなる自分がいます

また、日本食専門店でないにも関わらず、お店に行くと普通に刺身が売ってあったり。パラオ料理として、地元の食材と一緒に並べられることもよくあります。パラオスタイルは、醤油にレモンを絞って食べるようです。

刺身が並べられている。1パック7ドルほど(通貨は米ドル)

 

リゾートだけでない、懐かしい日本が残るパラオ。

年中暖かい気候と美しい海に囲まれた、南国パラオ。世界でも有数の綺麗な海で、ダイバーをはじめ、毎年数多くの人が訪れるリゾート地ですが、日本にとっては歴史的に非常にゆかりのある地です

海外ですが、街中には日本語もたくさんあふれ、なんだかアットホームな気がして落ち着きます。この機会にぜひ、訪れてみてください。

パラオのロングビーチ。潮が満ちた何時間かだけ上陸することができる

 

 

編集:ネルソン水嶋

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この記事を書いた人

松本 さとし

松本 さとし

佐賀生まれ佐賀育ち。おばあちゃんの畑を継ぎたいと思い、力をつけるために、『トビタテ!留学JAPAN』日本代表プログラム7期生として、オランダとパラオに留学し農業を学ぶ。専門は生命科学。年に150冊以上本を読む。好きな本は岡倉天心著の「茶の本」。

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