『アラブ世界と福嶋タケシ』後編:砂と太陽の異世界にあこがれて

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憧れの暮らしはアラビア語の猛特訓から

30歳を目前にして、UAE大学への留学が決まり、長年憧れつづけてたアラブ世界へいよいよ飛び込むことになった私。ここでまずはじめに、UAE大学についてお話したいと思います。

 

『アラブ世界と福嶋タケシ』前編:砂と太陽の異世界にあこがれて

 

UAE(アラブ首長国連邦)を構成する7つの首長国。そのうちの1つであるアブダビ首長国と隣国オマーンとの国境沿い、アルアインと呼ばれる町にその大学はあります。

アルアインとはアラビア語で「泉」の意味で、その名の通りかつて砂漠の中のオアシスだったこの町は、ドバイやアブダビのような賑やかさとは縁遠い小さな田舎町。特に学生寮の周りには何もなく、学業に専念するにはむしろちょうどよい環境でした。

UAE大学は自国民のための教育機関であり、国内唯一の国立総合大学です。学生の90%がローカルの人々であり、残り10%の外国人留学生たちも、母国の教育機関などとの提携によってやってきた学生たち。現状は分かりませんが、当時のUAE大学は個人による留学申請は認められませんでした。これはUAE国内に住む外国籍者にも適用され、UAEで生まれ育った人であっても外国籍であれば入学は許可されないという厳しさ。

イスラーム法学部などが入っているメインキャンパス

しかしながら私は、日本の教育機関ではなく、石油会社を母体とした日本UAE協会によるプログラムに参加していました。そこで特別に、「聴講生」として受け入れられたのです。

聴講生をふくめたすべての留学生は、国籍に関わらずまずはイスラーム法学部に配属されます。しかし、あれだけアラブに憧れていた割には勉強嫌いな性分が邪魔をして語学はほとんどやらずじまい。数字も覚えることなく、「こんにちは」「ありがとう」このふたつしかアラビア語を理解していなかった私にとって、アラビア語の、それも専門用語が飛び交う授業は当然ながら全く付いていけませんでした

このまま何を言っているのかも解らない講義をただ座って眺めているだけではダメだと思い、学長に直訴をしてアラビア語の初級コースを作ってもらうことに。同じようなことを考えていた学生が他にもいたらしく、一般教養のアラビア語の講師たちの空いた時間を使って、毎日1時間ほどの授業が始まりました。一緒に机を並べていたのはタタール人やイラク人たち。イラク人が何故? と聞いてみると、ロンドン生まれロンドン育ちのためアラビア語教育を受けたことがなかったからだとか。

ところが彼らは留学を始めてから既に1年以上が経っており、会話自体はほぼ問題なし。教科書を読むための文法学習を求めていた彼らと、文字すらおぼつかない私とではレベルが違う。おまけに講師のエジプト人からは初っ端に「授業を始めますが、アラビア語とフランス語どちらで進めて欲しいですか?」と言われ(多くのアラビア語講師の出身だった北アフリカでは植民地時代の影響から今でもフランス語が使われる)、わずかな希望だった「英語で授業を受ける」という選択肢すらも打ち砕かれました。

始まったからには仕方がない。字が汚い……もとい簡略化し過ぎて読めない黒板のアラビア文字を何度も何度も講師に確認しながら、必死でついて行きました。

寮長の計らいで一人で暮らしていましたが、通常は3人の相部屋です

やがて3ヶ月が過ぎ、学内で行われる文化祭で「学習の成果を発表しましょう」という話に。日本の俳句のことを知っていた講師から「これをアラビア語に翻訳してみないか」と提案され、いくつか有名な句を選んで翻訳したものを提出。日本語で意味を説明することさえ難しいのに、アラビア語の語彙力もほとんどない状態ではそれこそ直訳のようなものしか出来ませんでしたが、非常によい経験になりました。

6月に入り、2ヶ月以上の長い夏休みに突入。希望する学生は夏期講習を受けられると聞き、私もアラビア語のコースを作ってほしいと再び大学に掛け合って、1日4時間週5日の特別講義を設けてもらえることになりました。

 

ヨルダン人たちとの出会いと友情

UAE大学は全寮制のため、ローカル学生も授業のある平日は寮で過ごします。この寮は町中に3カ所あるのですが、夏期講習の期間中はメンテナンスのために1カ所に集められるのが決まりでした。私も指定された別の寮へ引っ越すことになり、そこで隣同士になったのがヨルダンから来た学生たち。彼らもまた夏期講習を受けるために、帰省することなくこの暑い砂漠の町に残っていたのです。

学生寮は敷地の中にヴィラが200戸ほど建てられたコンパウンドタイプ

日が経つにつれ、授業が終わると彼らと行動を共にすることが多くなり、レンタカーでドバイまで日帰り旅行に行ったり、夜な夜な町中へ出かけてはコーヒーショップでお喋りして関係を深めながら、一ヶ月が瞬く間に過ぎていきました。

夏休みの後半は何も予定がなく、さりとて留学してまだ半年なのに日本へ帰るのもどこか後ろめたい。どうしようかと考えあぐねていた時に、ヨルダン人学生たちから「俺たちの家に遊びに来いよ」との誘いが。夏期講習を終えて先に帰省した彼らを追うように、ヨルダンの首都アンマンへと飛び立ちました。

学生たちは出身地も様々だったため、彼らの家を訪ね歩きながら北から南まで文字通りヨルダン縦断の一ヶ月。北の町では国境越しにシリアを眺め、南の町では丘の向こうから放牧した羊の群れと共に帰宅する人の姿に、まるでファンタジーの世界にいるかのような気分に。もちろん、有名なペトラ遺跡を観光したり、死海にプカプカと浮かんだり、ひと通りのヨルダン観光も満喫。

なんと贅沢な時間を過ごしたのかと、今になって思います

学生たちは英語が話せましたが、町や村にいる住人、特に古い世代との会話はアラビア語のみ。なんとか意志疎通がしたい、その一心で知っている限りのアラビア語を絞り出しました。

夏休みが明けて寮へ戻ったときに友達のローカル学生から、「どうしたんだい? 随分とアラビア語が上手くなったじゃないか」と言われた時の嬉しさは今でもよく覚えています。

 

ベドウィンとの出会いと砂漠のしきたり

年が明けて2000年。冬休み期間の帰省から戻ってきた留学2年目の初め、挨拶のために学長室を訪れた時のことです。顔なじみの大学職員から「知人が君のことを探している。今から連絡を取るから話を聞いてあげてほしい」と言われて受話器を受け取りました。電話の向こうから聞こえてくる早口の英語。なんとか聞き取れたのは「10分ほどで大学正門前に着くから待っていろ」。

何のことやらよく分からないまま学長への挨拶もそこそこに正門で待っていると、目の前にやってきたのは大きなランクル(四輪駆動車)。運転席には立派なひげを蓄えたローカルと思しき男性が。

「いいから乗れよ」と言われるままに助手席へ。異国の地で見知らぬ人間の車に乗り込むなど、普通に考えれば相当リスキー。それなのに彼の言葉に従ったのは、大学関係者からの紹介という安心感もありますが、当時の生活では外国人留学生としか接触がなく、目の前に現れたローカルに少しワクワクしていたからかもしれません

友人の服装のイメージ(写真は砂漠での寄り合いの場面で、私が付き合いのあった部族とは違う人たち)

市内を少し抜けたあたり、家というよりは屋敷が立ち並ぶ住宅エリア。その中の一軒、立派な門構えの家の庭へと車は滑り込みます。一見、家かと思う正面にある大きな一戸建ては実は「ゲスト用の家」で、本宅はその裏側で外からは全く見えません。更に入り口脇に砂漠の遊牧民である『ベドウィン』のテントを模した客間が。それがどの家にも備えられている「マジリス」と呼ばれる類のものだと知ったのは、もう少し後のこと。

屋敷を囲む塀だけで100メートル以上

その後毎日通った友人の家のテント型マジリス

マジリスに座り、ガホワ (アラビックコーヒー) を飲んだところで、件のローカルがこう切り出します。「息子が空手を習っている。日本から道着を買いたいのだが、あいにく日本語が解らないので手伝ってもらえないだろうか」、と。

なんだそんなことならお安い御用と、後日、電子メールを使って注文し、無事に道着を入手。これをきっかけに彼とは友人となり、ベドウィンの血を受け継ぐ彼やその家族、すなわち部族ぐるみの付き合いが始まりました。

ガホワを飲み、話し、友人に。

午前中は市内で彼の買い物に付き合い、お昼ごはんをマジリスで食べて昼寝をして、午後遅くになると郊外のさらにまた砂漠の向こうにある彼らの牧場へ。

そこにはラクダが100頭、ヤギやヒツジが200頭といった単位で、柵に囲まれた広大な敷地の中で飼われており、ラクダと戯れたり、時にはレース用ラクダの調教を手伝わされたり、という毎日を過ごしました。調教と言っても、数キロの直線をラクダの背に揺られながらただのんびりと往復するだけでしたが。

ベドウィン親父たちに杖を持たされて記念撮影

そうして日が暮れると牧場の中のマジリスへ。隣接する牧場を経営する他部族のオーナーたちもここに加わるのですが、ベドウィン社会の基本は年功序列。挨拶の仕方から言葉遣い、年配者と接する時の態度まで、私はそこでベドウィンとしてのしきたりや作法を見よう見まねで学びました

彼らに勧められて同じ民族衣装を着ていた私は、「外国人だから知らなくても仕方がない」という言い訳が全く通用しない領域へと足を踏み入れてしまったのです。

砂漠ではナツメヤシと搾りたてのラクダのミルクが夕食代わり。ついさっき絞ったばかりの生温かいミルクを毎晩1リットルほど飲まされました。「男たるもの『出来ません』などと絶対に口にしてはならん」というのがベドウィン親父たちの口癖。お腹がはちきれそうになりながらも飲み干します。

余ったミルクは大きなペットボトルに入れて渡され、毎晩寮まで持ち帰っていました。ラクダのミルクは人気で、部屋に入るや否やそれを楽しみに待っていた寮の学生たちが奪い合うようにして飲みます。彼らローカル学生たちでも、ベドウィンに近づくことは簡単なことではなかったのです。

 

苦難の就職活動の末、ある日突然降って湧いたカタールでの就職

そんなベドウィンたちとの生活も1年が過ぎ、当初予定していた留学期間も終わりが近づいてきました。

2年経ったら帰国し海外駐在枠のある仕事に就こうか、などとボンヤリ考えていた留学当初。しかし、思いもよらなかったベドウィンたちとの出会いが私の心を引き止めます。「このまま砂漠に寄り添いながら彼らとともに生きていきたい」という思いが日増しに強まり、この地に残るための仕事探しを開始。

ところが、当時のアラブでは国家主導によるローカライゼーション、いわゆる「様々な分野における自国民による運営化」が強まっており、行く先々で「外国人は要らない」と門前払い。友人もあちこちで心当たりを回ってくれましたが、ローカライゼーションの波は想像以上に早く進んでいました。

知人のツテで訪ねた日系企業では「この国とのコネを作ることが大事なので、アラビア語を話す日本人より英語を話すローカルが欲しい」とバッサリ。

事務処理といった仕事は、給与が安くても文句を言わずに働く南アジア系の出稼ぎ労働者で枠は埋まっていました。専門職は最低3年の実務経験が必要で、かつそれぞれの職種に見合った専攻を修めていることが条件。広く浅く潰しの効く「ジェネラリスト」を目指すことが一般的とされる日本人が戦えるような状況ではなかったのです。

この私の状況を見かねた学長からは、「本学生として入学を認めても良い。そうすれば、あと4年はここに居られるだろう? 」と有り難い提案をもらったものの、この時すでに30歳に突入していた自分としては今すぐにでも働いて稼ぎを得て自活したいという気持ちが強く、せっかくながらも断りました。

それから段々と諦めの気持ちが強くなり、「もう日本へ帰ろうか」と思い始めた矢先、ふとしたきっかけで友人から、カタールからやってきた叔父さんだという人を紹介される機会がありました。湾岸アラブ諸国は戦前、共同体を構成する最も大きな要素は「部族」でした。それが「国家」という概念に覆われた今も変わらず、部族の絆は続いており、それ故に親族が複数の国に股がって暮らすことは何ら珍しいことではありません。

聞けば、叔父さんはカタール政府で働くお偉いさん。その場で友人が叔父さんに私の仕事を斡旋してくれるように頼んでくれたところ、「そういうことならば、構わんよ」とあっさり了承されたのです。とはいえ、そこは口約束。アラブ人のそれが100%保証されるものではないことを、この3年間で嫌というほど味わってきた私。話半分くらいに聞いていましたが、そんな不安は良い意味で裏切られ、叔父さんが本国へ戻ってちょうど1ヶ月後のこと。本当にビザが発給されて、慌ただしくカタールへ渡ることになりました。

これまでにも、「友人が学長に一言頼んだ」だけで3年目の留学延長が承認されたり……といった機会に「コネ社会」の実情を垣間見てきましたが、あれほど難航した就職がいとも簡単に決まってしまったことは、この社会が「コネ」つまりは「人間関係の深度」によっていかに成り立っているのかを改めて考えさせる出来事でした。

そして、いわば自分たちの「本家」に「こいつをよろしく」と頼み込む行為、それは私という外国人に対する信頼度の大きさを表すもの。これまでは一緒にいて楽しかっただけの関係、しかし、これからは部族の誇りを背負って私は行きていくのだと自覚した瞬間でもありました

夢だった砂漠との暮らしからは少し離れてしまったものの、20歳の時に思い描いた「アラブでの暮らし」、そして25歳の時に目にした「アラブの街並み」が目の前に確かにありました。UAEに来た時と同じ「知人も友人もいない」独りの日本人に戻ってしまいましたが、不思議と不安や怖さは感じません。それは、部族に守られているという安心感、そして夢が現実に変わったのだという気持ちの強さがそうさせたのでしょう。

そして現代に戻り、ドーハにはこのような夜景が見られるように。

 

2022年をきかっけに、砂漠を離れて思うこと

あのドーハに降り立った日から16年が経った今だからこそ、もし20歳の自分に会いにいけるのなら、その夢は必ず叶うと言ってあげたい。想像しているよりも遥かに高いところまで行けるよと。

日々アラブ服を身にまとい、アラビア語で会話をするという、日本人から見ればまさに「異世界の住人」となった自分がそれでも思うのは、日本だろうとアラブだろうと「働いて糧を得ながら暮らす」ということに大した違いはないのだなということ。むしろ外国人というハンデを負う分だけ増える苦労を考えれば、日本に暮らしたほうが本当は楽なのかもしれません。

それでも今の自分には「日本へ帰って暮らす」という選択肢は全くありません。それは仕事や収入といった現実的なものから、ベドウィン文化の中で生きていたいという感情的なものまで理由は多々あります。ただ、あえて一言で言うのなら、「ここで出会った人たちと離れたくない」でしょうか。

W杯対応の改修工事を終えてライトアップされるハリーファスタジアム

2022年、この国にワールドカップがやってきます。ここ数年はそのための準備が急ピッチで進められており、16年前とは街の風景も大きく変わりました。

4年後もここに暮らしているのか、はたまた別の場所へとうつろっているのか、私自身にも想像が付きませんが、今はただ淡々とこの国の変化を眺めながら暮らしていきたいと思っています。

発展を続けていくドーハの街並み

 

 

編集:ネルソン水嶋

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この記事を書いた人

福嶋 タケシ

福嶋 タケシ

1970年生まれ、大阪出身。1999年にUAE大学留学。2002年よりカタール在住。現地政府所属の公務員として、写真撮影およびメディアリサーチ等を担当。ラクダをこよなく愛し、鷹匠に憧れる日系ベドウィン。Instagram / 『遊牧民的人生

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