僕とマテ茶とアルゼンチン~南米の茶道を極めろ~

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※本記事は特集『海外の飲み物』、アルゼンチンからお送りします。

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アルゼンチン人が愛するひょうたん壺ってなに?

2014年、当時遠距離恋愛中だった僕は将来の妻となる彼女のアントに会うため、アルゼンチンの大地を踏んでいた。

空港の到着ロビーに並ぶ大量のタクシー運転手の波をかぎ分け、アントに指示された通り、Tienda Leon(ライオンの店)という物騒な名の会社でタクシー手配をする。タクシー運転手を待っていると、不思議な光景に気づいた。

「あれはなんだ?」

人々はひょうたん壺にストローを刺して何か飲んでいる。チェックインの列をなす人々、旅行客をカモにする現地のタクシー運転手たち、キオスコの店員もだ。3メートルも歩けば壺を持った人に出会える。だが、スペイン語が分からない僕は、それが何かさえ尋ねることができなかった。

夕食が22時頃と遅いアルゼンチンには、18時頃にメリエンダという軽食を取る時間がある。いわゆる、「6時のおやつ」だ。

メリエンダの際、妻アントの叔父リーゴ宅へ向かった。彼の家族は、パンやクラッカー、叔母さん特製の甘酸っぱいスモモのジャムなどで歓迎してくれた。

「サッカーのオンダ(本田圭佑のことである)知ってるよ!」
「日本人はクジラを食べるって本当かい?」
「ほら、もっと食べなさい」
「空手できる?」
「シュン、お皿空いてるわよ」

質問攻めにあい、勧められるがままパンを食べていると、叔母さんがヤカンとあの謎の壺を持ってきた。アントにこっそり壺について尋ねると、マテ茶だという。なるほど、これがそうか。

義母に見せてもらった昔の家族写真。左上の人がマテを持っている!

マテ茶とは、コーヒーと紅茶にならぶ世界三大飲料の1つで、アルゼンチンの人々が日常的に飲むお茶である。某飲料メーカーが販売していたこともあり、存在こそ知っていた。しかし、壺で飲むとは思いもしなかった。そしてこのアルゼンチンは、そんなマテ茶の本場である

リーゴがズズーッと飲み、再びお湯を注いで僕に渡す。どうやら、この壺をみんなで回し飲みするようだ。つまり、この場にいる全員(しかも初対面!)と間接キスするのか。そう思うと色々気になり始めた。この鉄のストローは確実に使い捨てではない。外は洗えても、中は洗えるのだろうか。

若干の潔癖症を発揮し始めた僕は、心を落ち着けるため、とりあえずストローをひと回しする。そこで僕は重大な過ちを犯したらしい。

「ノー!!!」

その場にいた全員が絶望の叫びをあげた。まるで、ゲースロ(※全世界で大ヒットを記録した『ゲーム・オブ・スローンズ』の略称である)の推しキャラが無残に死んだかのような。その巨大な手で顔を覆ったリーゴは指と指の隙間から僕を見据えて、「シュン、ボンビーシャに触ってはいけない」と言う

ボンビーシャ??

文字通り目が点となった僕を見て、彼らはマテ茶について丁寧に教えてくれた。

上から時計回りに、ボンビーシャ、シェルバ、マテ

ボンビーシャとは鉄のストローのことで、壺をマテと呼ぶそうだ。てっきりマテは茶葉のことだと思っていたが、茶葉はシェルバと言うらしい。

そして、セバドール(お湯淹れ役)以外は、ボンビーシャを動かしてはいけないそうだ。それこそ、かき混ぜるなんて冒涜行為だったのかもしれない。

そうして新たにお湯を注いだ(つまり作り直した)マテを渡され、一口すすってみた。日本茶のような苦みがあり、雑草を煮詰めたような、さらに悪く言えば煙草の副流煙を思い出させる独特な匂いが苦手だ。もういいやと思い、隣にいるアントにパスすると、「最後まで飲む(ものな)のよ」と叱られてしまった

日本のビーチでもマテは欠かせない

「慣れるまで美味しくないさ」、リーゴは笑って砂糖を加えるように言う。砂糖なしをマテ・アマルゴ(苦マテ)、砂糖ありをマテ・ドゥルセ(甘マテ)と呼ぶ。アルゼンチンでは、マテ・ドゥルセが一般的である。

砂糖を加えると、苦みが中和されて幾分かましだ。ズズッと音が鳴ったら、飲み干した証。「グラシアス(ありがとう)」、そう言ってマテを渡すと、リーゴは待ってましたとばかりに「もういらないの?」と尋ね、皆が笑う。

マテ茶を飲む場においては、グラシアス=ごちそうさまの意味だそうだ。正直もういらなかったが、1回で飲むのを止めるとまた注意されそうな気がしたから、「ノー!ノー・グラシアス!」と慌てて言っておいた。

守るべきルールがいくつもあり、まるで茶道のようだ。しかし、正直なところ、味も美味しくなければ、衛生的でもない。こうしてしばらくの間、僕はマテ茶から遠ざかった。

 

肉中心の食生活が駆り立てた健康意識とガウチョのマテ茶

移住から半年ほどして、僕は食生活に不安を抱えていた。古代アルゼンチンには数多くの恐竜が生息していたそうだが、もしやそのDNAを引き継いでいるのかと思うくらい、ここの人たちは恐竜のように肉ばかり喰らう。食卓に出るのは、かたまり肉とパスタやパン、赤ワイン。サラダはほとんどない(フライドポテトを野菜と見なすのなら話は別だが)。

肉の山とマヨネーズたっぷりのポテトサラダ

義父が胆石手術を受けたこともあり、健康への恐怖心は増すばかり。そんな時、たまたまネットで見かけた「マテ茶は飲むサラダ」という文。なんでもマテ茶はミネラルとビタミンが豊富で、ポリフェノール量は赤ワインや緑茶を優に凌ぐらしい。まさに、最強の健康茶。義父はマテ茶を飲まないから胆石ができたんだ、と無理やり自分を納得させた。

それから毎日マテ・アマルゴを飲み始めたものの、渋くて苦みがすごい。久しぶりに飲んだからだろうか、こんなに苦かった? と思うほどだ。しかし、良薬口に苦しである。つづけてみれば不思議なことに、次第にマテ茶の味に慣れてくる。ビールやブラックコーヒーを好きになる感覚に近い。煙草もブラックコーヒーも、最初は吐き出したくなる味だったではないか。

こうして僕はマテ茶に誘われた時、積極的にその輪に加わるようになった。その際必ず聞かれるのが、外国人である僕がマテ茶が好きなのかどうかである。

「もちろん毎日飲んでいるよ。砂糖は入れないけどね」

それを聞いて、「マテ・アマルゴなんてガウチョと一緒じゃない。真のアルゼンチン人だわ」と、その場にいたベシーナ(「隣人」の意味だが、誰もが彼女のことをベシーナと呼ぶ)が言った。

国旗の日を祝うセレモニー会場にいたガウチョ

ガウチョとは、アルゼンチン版カウボーイのことである。一部の外国人が侍や忍者に憧れるよう、僕はひそかにガウチョに憧れの心を抱いていた。そんな僕が、「ガウチョみたいだ」と言われてうれしくない訳がない。

それ以来、マテ茶が一層好きになった。それまで湯沸かしに使っていた電気ケトルもヤカンに変えた。なぜなら真のガウチョならヤカンで湯を沸かすはずだから。しかし、そんな有頂天の僕を地面にたたきつける出来事が起きる。

 

あまりにも苦すぎる初セバドールデビュー

妻の従妹のビッキーが遊びに来た。豪快に笑い、言いたいことをズバズバ言う女性である。彼女の昔のあだ名は「ラ・ピラタン(海賊)」だったそうだが、妙に腑に落ちた。

アントの従妹たち。左からビッキー、アント、リセ。

「お客さんが来たら飲み物よ! マテ茶飲みたいわ」、冗談ではなく本当にガハハと笑いながら言う。そういえば、これまで僕は自分用に作ることはあっても、人と飲むためにマテ茶を作ったことはない。ガウチョと称されたゴールデンルーキーのデビュー戦というわけだ。

最初の1~2杯ほどは苦みと渋みが凝縮されているから、お湯淹れ役のセバドールが飲んでから渡すのがマナーである。砂糖を少し入れて、ビッキーに渡す。「きっと驚くぞ」、内心ワクワクしていたその時、

「ヴェええーーー!!!」

えっ

「なんでこんなにまずいの!? 私が作るわ」、大げさに舌を出して顔をゆがめる。ビッキーは不味そうにマテ茶を飲み干して、ゴミ箱にシェルバを捨てた。マテ壺が泣いているかのよう、緑の滴がポタポタと落ちている。

その後の記憶は覚えていない。だが、もうセバドールにはならまいと決心した。こうして僕の作るマテ茶のように、苦い移住生活1年目が終わった。

 

カリーニョの声を見極めろ! マテ茶の特訓

マテの醍醐味の一つは、多種多様なマテ壺デザイン!

移住2年目、僕は運命的な出会いをする。マルセーロという男の車修理工場で働くことになったのだ。彼が僕に与えた初めての仕事はマテ茶淹れ、要はお茶くみだ。朝と休憩中、そしてお客さんが来た時にマテ茶を淹れなければいけない。

「マテ茶の作り方は知ってるだろ?」、ビッキーの件もあり僕は曖昧な返事をする。「とりあえず作ってみろよ、アミーゴ」、彼は親しみの意味を込めてアミーゴと言うのが口癖だ。言われるがまま、いつも通りお湯を沸騰させたところで彼は言う。

手で蓋をしてマテ壺をシャカシャカ

「……その様子だと、お前はマテ茶の淹れ方を知らないな。トゥ・セニョーラ(奥さん)は教えてくれなかったのか? まずシェルバを入れたら、こうやって手で蓋をして上下に素早く振る、もしくは逆さまにするんだ。こうすることで、底にシェルバの粉が溜まるのを防ぎつつ、余分な粉を払い落せる」

衝撃が走った。それまで僕は、壺に茶葉を入れて、お湯を注ぐだけでいいと思い込んでいたのだ。

「重要なのがお湯の温度。理想は80度くらい熱すぎると、本来ならじっくりと時間をかけて抽出されるべき風味が、一気に出てしまう。お前のマテ茶は3杯目くらいまで苦すぎるはずだ」

名探偵は飲んでもいないのに真実を見抜く。

「どうやってお湯の温度なんか分かるのさ? 体温計でも突っ込めと言うのかい?」

スペイン語を話してるときは、ジョークも外国風になってしまう。

このボニータ(カワイ子ちゃん)の声を聞くのさ

マルセーロは電気ケトルを指さしてそう言った。マテ茶用の温度調節ができるポットはある。でも、喋りはしない。納得いかない顔の僕を無視して、マルセロはケトルのスイッチを入れる。

「分かるか、アミーゴ。静かにゴーゴー、言ってるだろ。ケトルでもヤカンでも、70度の声、80度の声があるんだ。それを覚えなきゃいけない」

そう言ってマルセーロはポットのスイッチを切り、マテ茶を作って僕に渡す。皆で飲む時はマテ・ドゥルセばかりだから気づかなかったが、マテ茶はこんなにもすっきりしているんだ。一流の味に触れたことで、今まで僕が作っていたマテ・アマルゴが三流以下の味だと初めて分かる。

「この味を作れるようになってくれよ。不味いマテ茶で始める一日は最悪だからな」

こうして僕とマルセロの特訓は始まった。車仕事については優しく教えてくれたが、マテ茶になるとマルセーロは厳しい。彼の言う「ボニータの囁き」を聞き取れなければ、何度もやり直し。

「今だよ、アミーゴ! ケトルが、アオラ(今よ)、と言ってるだろ。ちゃんと聞くんだ。」

「アルゼンチン人のアオラは10分後20分後だから、もう少し先かと思っていたよ! このケトルは日本製かい?」

こうして僕はアルゼンチン生活に欠かせないブラックジョークも身に着けた。

スーパーのシェルバコーナー。

シェルバを入れる量からお湯の温度、そして注ぎ方まで徹底的にしごかれた。特訓は過酷を極めた。2リットルのケトルの持ちすぎで、腱鞘炎になるかと思ったほどである。

そうして、いつからだろう。僕のマテ茶がマルセーロだけではなく、隣で家作りに励む大工たちにも受け入れられたのは。誰もが、僕が淹れたマテ壺で暖を取るよう両手で包み込むように持ち、下世話な話を楽しむ。その光景に気づいた瞬間、アルゼンチン人に認められた気がした。そして、マルセーロは忽然と姿を消した。

風の便りによると、隣国のチリで自動車修理するという夢を叶えたそうだ。

 

突如訪れた雪辱を果たす機会

マルセーロがいなくなっても、彼のマテ茶愛は受け継いだ。特に彼が言っていたよう、雨の日にトルタフリータ(揚げパン)片手に飲むマテ茶は最高である。大げさではなく、僕の一日はマテ茶で始まり、マテ茶で終る。

誕生日プレゼントで貰ったマテでウルグアイ式を披露

特に外出時にマテ茶は欠かせない。初めはマテ茶専用カバンを使っていたが、意外とかさばるし、歩いている時に飲めない。マテ・アマルゴを嗜む僕は、片手で水筒を抱え込むように持ち、同じ手でマテ壺を持つスタイルを導入した。というのも、砂糖を持ち歩く必要がないからだ。これをウルグアイ式と呼ぶ。マテ茶はウルグアイやブラジルなど中南米各国で愛されているのだ。

マテ茶を持ち運ぶようになって、顔見知り、そして友人と呼べる人物もできた。公園などで、見知らぬ人と挨拶程度の会話した流れで、「一緒にマテでもどう?」と誘えば、社交性からかけ離れた僕でも気軽に会話を楽しめる。

こうして僕は充実のマテ茶ライフを送っていた。しかし、それを完全なものとするためにも、僕には乗り越えなければいけないトラウマがあった。

おばあちゃん達も一緒にマテ茶。

おばあちゃん達も一緒にマテ茶。

2019年9月、義姉の娘マルティーナの誕生日パーティーが開かれた。子どもたちは遊びに夢中のいっぽう、大人たちは大きなお尻を椅子につけたままおしゃべりである。甘ったるいお菓子を食べていると、自然とマテ茶を飲みたくなるのは、アルゼンチン人の性である。

お節介焼きの義母が「シュンはマテ茶毎日飲んでいるのよ」と言ったため、僕がマテ茶を作ることに。15人以上はいただろうか、これほど多くの人にマテ茶を作るのは初めてだ。

お湯が準備できるのを待っていると、「私もマテ茶飲みたーい!」と聞き覚えの声がする。振り向くと、そこにはおどけて手をピンと伸ばし切っている”あいつ”がいた。義姉の旦那さんは、やつの元カレでここに来ることはないと思っていた。それなのにどうして。僕はやつの名前を心の中で噛みしめる。

「ビッキー……。」

「久しぶりじゃない! あんたがマテ茶作るの?」、ビッキーは少し出てきた義父のお腹を優しくさすっている。威厳のある義父にそんなことできるのは彼女だけだ。そんなムードメーカーの登場によって、完全に空気が変わった。

あの日の光景がフラッシュバックする。もし大勢の人々の前で、ビッキーが同じ反応をしたら。想像するだけでも恐ろしいが、可能性は十分にあり得る。いや、今の僕なら大丈夫だ。手が小刻みに震えた。緊張からではない。これが武者震いなのか。全ての準備が整った。

優しくお湯を注いであげると、シェルバがふわりと浮かび、コポコポと泡が出てきた。経験上、こうなればマテ茶は美味い。一杯目を飲んだが、予想通り良い出来だ。

こうして僕はマテ奉行として、マテ・ドゥルセとマテ・アマルゴを同時にさばいていく。外国人がマテ茶を作れるとは予想していなかったのか、招待客の男性は一口飲んで「ケ・リコ(美味しい)!」と大きな目を見開いていた。そして、ついにその時が来た。

「ビッキー」

お喋りに夢中になっている彼女を呼び、マテを渡す。

ビッキーと娘アイナーラ。

ビッキーはマテ茶を飲み干して、特にリアクションすることもなく壺を返した。僕は内心ガッツポーズをした。それはまるで、アルゼンチン人と飲んでいるかのような自然なふるまいだったからだ

次第に「グラシアス」の声が出始める。最後まで残ったのは、ビッキー、ではなく60歳位の白髪の男性だった。彼は「グラシアス、エル・アルヘンティーノ(ありがとう、アルゼンチン人よ)」と言った。

 

人々がマテ茶を回し飲みする理由

これほどまでに、アルゼンチン人がマテ茶を愛する理由は、いまだに分からない。もちろん直接聞いてみたことはあるが、当の彼らさえよく分かっていないのだ。説明できない不可思議な魅力があるとしか言いようがない。ただ、マテ茶の起源を振り返ると、少しヒントを得られる気がする。

マテ茶を飲むグアラニー族の女性/Author:Carla.antonini

マテ茶を発見したグアラニー族は、物を多く持っていても、人々と分かちあう精神を持たなければ、豊かではないと考えていたそうだ。だから、「神の贈り物」であるマテ茶を発見した時、彼らは仲間たちと共有することにした。

そのグアラニーの共有する精神はスペイン植民地時代のキリスト宣教師、そしてガウチョを通して現代まで受け継がれている。共にマテ茶を飲むことで、愛情や献身性を分かち合っているのかもしれない。

ほら、こんなにSNS映えもする

残念ながら、マテ茶はレストランやカフェでは飲めない。だが、スーパーや露店など至る所でマテ茶セットは売っているので、お土産にぴったりだ。

振り返ると、これまでの移住生活はマテと共にあった。友人ができず孤独だった時も、慣れない仕事にもがいている時も、そして大切な人々と一緒にいる時も、いつもマテがあった。

時に残酷なほど厳しい一面を見せる人生において、マテは良いコンパニェーロ(相棒)なのかもしれない。

 

 

編集:ネルソン水嶋

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この記事を書いた人

奥川 駿平

奥川 駿平

1992年生まれ、福岡県古賀市育ち。アルゼンチン在住歴3年。美人アルゼンチン人嫁と結婚するために、新卒という大きすぎるブランドを捨ててアルゼンチンに移住。毎日マテ茶を飲むほどのマテ茶好きで、同世代で最もマテ茶を消費していると自称。今さらながら、Twitterにドはまりしています。

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